「レコード契約なんて欲しくなかった。すべてが安っぽくなったり、均質化して欲しくなかった。お笑い種にはしたくなかったんだ。自分のやってることをとにかくやりたかっただけなんだ。何にも制約されずにね。俺はとにかくいろんな違った音楽をやる。“ルーザー”はそのうちのひとつでしかない。だから、俺の中から出てくるあらゆる種類の音楽を扱えるレコード会社を見つけたかったんだ」
そんなことを言われても、ベックを一躍オーヴァーグラウンドに押し挙げてしまったシングル曲「ルーザー」はあまりにも強烈すぎた。間違いなくここ1年の間にリリースされたすべてのシングルを軽く薙ぎ倒してしまう出来である。もはや94年のベスト・シングルだと断言してしまおう。

アーリー・ブルースを思わせるアコギによるスライド・ギター。どこまでもダルなブレイク・ビーツ。シタールのサンプリング。老人のような声。そして、レディオヘッドの「クリープ」への返答と言われる所以たる強烈なシンガロング・コーラス。「オレハマケイヌダ。俺は負け犬だ。ほら、殺っちまったらどうなんだ?」僕はこの曲を初めて聴かされた時、ディランの1stアルバムに収録されたブラインド・ウィリー・ジョンスンのカヴァー「死にかけて」を、ダブらせた。それは多分、自分の棺桶を担がされたままニッコリ笑うことを強要されているような、このナンバーのたたずまいのせいだろう。
そう、すべてはこの「ルーザー」が始まりだったのである。LAのインディ・レーベルBongloadからリリースされた「ルーザー」はKXLU、KCRWといったカレッジ・ステーションで熱狂的な支持を獲得、その結果、メジャー各社による争奪戦が開始される。そして、すったもんだした挙句、最終的にベックはゲフィンと契約、現在に至るというわけである。
ベックーこのロウ・ティーンのような幼さの残るルックスの男の本名はベック・ハンセン。現在23歳である。父親はブルーグラス・スタイルのストリート・ミュージシャンで、そのためか12の頃までカンサス州に住む牧師の祖父の下で育てられたらしい。そして、祖父夫婦が離婚した15の時にヨーロッパへ移住。そちらの祖父はジャンク・アートをやっていたとは本人の弁である。
その後、NYのアンチ・フォーク・シーンで音楽的なキャリアを出発させるが、肌に合わずLAに舞い戻る。そして、シルヴァーレイク地区のコーヒー・ハウス『ONYX』でアコースティック・ギターを引いて歌い始めた頃から、その特異な才能を開花させることになるのだ。実は「ルーザー」は既に91年、そのコーヒー・ハウスで知り合った友人宅のリビング・ルームで、8トラックでレコーディングされていたのである。
そんなわけで完成したアルバム『メロウ・ゴールド』であるが、タイトルはドノヴァンの往年のヒット作「メロー・イエロー」を連想させる。“エレクトリック・バナナ”という歌詩を持つサイケデリックなフォーク・スタイルのセックス・ソングである。
だが、アルバム『メロウ・ゴールド』はまさに94年の路上とベッド・ルームの間に生み落とされたサイケデリック・フォーク・アルバム。
脱力したままで鳴らされるアコースティック・ギターに、躁と鬱の間を行き来するノイズ、そして、いくつかのトラックではヒップホップ・スタイルのリズム・ループがあくまでも憮然とした表情で横たわる。そこに、路上で出会ったバロウズとジョイスが2人で白い粉をまぶしたマクドナルドと金メッキしたガラクタを飲み込みながら踊っているーそんな悪夢が延々と続いていくような歌詞。
それをまるでウディ・ガスリー(ディランのアイドルとして知られるトラディショナル・フォーク・ブルース・シンガー)のような嗄れた声がダルに歌い出すのである。

「俺は自分自身を抑えたりしない。もしエレキ・ギターをステーキ・ナイフで弾く必要が生じたのなら俺はそうするだろう。でもそれを皆に聴かせるべきだとか、そんな風には思わないけどさ。俺はのらくらとやるのが大好きなんだ。さもないと、何もかもが真面目腐ったものになっちまったり、退屈なものになっちまう。必要以上にミエミエで、必要以上にエキサイティング、必要以上にオリジナルで、必要以上に人為的で、必要以上に集中した淫らなものになりすぎちゃうんだよ」
そう、要するに、このベックというアーティストはいーかげんなのである。だが、現代において“いーかげん”であり続けることがいかに困難なことか。気が付くと、人間は自分自身のため、家族のため、企業のため、社会のため、国のために汗を流し、自分自身が望んだものはそんなものじゃないのは百も承知の上で大してどーでもいいようなことに興奮して、鼻水まじりで檄を飛ばしていたりするのだ。
そしていつの間にか“熱中すること”なしで生きられなくなったりする。別に何もせずに散歩でもしていればいいのにもかかわらずだ。そして、挙句の果てには首を吊ったりするのである。
そう、人は誰かから強要されずとも、そんな具合に必要以上に真剣に世界と格闘してしまう。そして、それこそが罠、それこそがシステムと呼ばれるものの正体である。
そこで何もしないままでいれば飼い慣らされるだけ。かと言って、そこに闘いを挑めば、蟻地獄にはまったかのように一生足掻き続けることになる。「シュッド・アイ・ステイ・オア・シュッド・アイ・ゴー?」とは誰が歌ったんだっけか?そんな状況下では、いろんな選択肢があるだろう。「それでも闘うしかないんだ!」と声高に叫んだって構わない。でも、それは哀しすぎる。これまで、あまりにもそんな哀しいロックンロールが多すぎた。
もしかすると、ベックこそが現在もっとも内なるシステムと過酷な形で闘っているアーティストなのかもしれない。“いーかげん”であり続けることに対してストイックであり続けること。このアルバムからはそんなアティチュードが見て取れるのだ。
「(自分自身の音楽が)政治的であって欲しいと思うよ。でも、政治は軽率な行動や羽飾りやセクシー・デス・ソーダ・カン(?!)」を許容したりしないからな。だから、その辺を妥協するのが難しいんだ。政治は親切というコレステロールと結びつきすぎている。だから、自分がどういう世界に生きてるのかを知るのは難しい。俺としては願わくばサウンドに関係ある世界にいると思いたいね。それと白熱電球とコンフェッティ・ポテト・スープ(?!)に関係のある世界にいると思いたいんだ。そういう本当に大切なものと関係のある世界にね」
サッパリ訳の分からないことを、このジャンキーは言っている。だが、誰かを敵にまわす時にどんなタイプが一番怖いかと言えば、それは共通する言語システムを持たない相手である。この男、伝え聞いた話では、MTV出演時に「何であなたの名前はベックと言うんですか?」と尋ねられ、ほんの少し沈黙していたかと思えば、いきなり手元にあった電話機をつかむや、渾身の力を込めて壁に向かって投げつけたらしい。
電文なので真偽のほどは確かではない。しかし、少なくともこのアルバム『メロウ・ゴールド』が我々に投げ掛けるコミュニケーションというのは、そういう類いのものだ。
「あなたは誰ですか?」
「…………」
「…えー、あなたの名前は?」
「…………ガシャン!」
だが、ここにあるのは「こんばんは、渋谷陽一です」と言うよりは遥かに雄弁に自己を語る表象行為なのである。そう、ベックの音楽は現在のシーンにおいて奇跡的なまでにダイレクトだ。
音楽によるコミュニケーションは産業化/芸能化したポップ・ミュージックによって今や急速にその効力を失いつつある。言葉のまわりから離れることができない出来損ないのロックンロール、すべては言語化不能であるというエクスキューズから一歩も出ようとしないインストゥルメンタル音楽。そして、今なお生息し続ける「だって、音楽って音を楽しむって書くものじゃん」という知能指数の絶対的な欠如以前に、皮膚感覚そのものを麻痺させてしまった鈍感なリスナーどもの存在がそうした状況に拍車をかける。本来そこにあるべきだった“曖昧でいてダイレクト”な訴求力、見えないネットワークはいつの間にか力を失ってしまった。
だが、このどーでもいいような態度でいーかげんに作ったとしか思えないアルバムは何故これほどにダイレクトにその存在を訴えかけてくるのか?
それは多分、ベックの音楽が表現として自立していると言うよりは、現在世界に蔓延している空気と本当に分かち難く結びついているからだ。それは「もう、どーでもいーじゃん? へへ」というような生理的な感覚。諦めというほど大袈裟なものではないが、日常的に吹き出してくる新陳代謝の一部ーフケやアカのような徒労感である。
誰もが四六時中、拳を握りしめて懸命に生きているわけではない。どうしようもなく絶望し続けている人間などいない。なのに、屈託なく白黒はっきりしすぎてしまうロックンロールがあまりにも多すぎる。必要以上にシニカルすぎたり、必要以上にポジティヴだったり、必要以上に大仰だったり、必要以上にエキサイティングだったり…。
だが、これこそがシステムの最初の落とし穴なのだ。それは音楽産業というビジネスに取り込まれてしまい云々といったチンケな話ではない。人間という“どうしようもない生き物”の本質とは、袋小路のような状況を果敢に切り開いて行こうとする意思や、それを実現させる行動力にあるのではなく、むしろこうした整理に直結する“どうしようもない”部分にこそあるのではないか?
にもかかわらず、我々が表現に関わる時、そうした自分自身の“いーかげん”でグレイな部分は棚上げになりがちだ。誰もがギターを持った瞬間に、そういった「もうどーでもいーじゃん? へへ」という生理的な感覚ははぎ取られ、まるで我々にはボーッとしている時の時間など存在しないかのような凝縮された時間、非日常やどこまでも拡がる夢がそれに取って替わられてしまうという話なのだ。それって、やっぱり、リアルじゃない。

だが、ベックは「へへ、どーでもいいじゃねえか?」という感覚を消し去ることなく、ボーッとしたままの時間を少しもデフォルメすることないままサウンドに定着させることによって、そうした現代のロックンロールが越えるべき面倒くさいハードルを見事にクリアしてしまったのである。
「(俺が影響を受けたのは)脚立、ウディ・ガスリー、オジー・オズボーン、お人形、フォークリフト、それから、イエーガー・マイスター・パイ(??)」
何言ってんだ、馬鹿。だが、この悪ふざけでしかない発言は、ある意味で真実を伝えている。ベックが実際にオジー・オズボーンに影響を受けたのかどうか?脚立やフォークリフト(実はLA辺りのインディ・バンド名だったりして)からどう影響を受けたかどうか?なんてことについて真剣に悩む必要は微塵もない。ここからは確かにこのアルバムと同様に「こーんなインタービュー、どーでもいーや」というあまりにもリアルな感覚が伝わってくる。それが壮快でさえあるのだ。
この“いーかげんさ”をかたくなに貫きとおすこと。もはやそんな言義矛盾でしかないアプローチが、この『メロウ・ゴールド』というアルバムでは奇跡的に成功してしまっているのである。
「俺としては願わくばサウンドに関係ある世界にいると思いたいね。それと白熱電球とコンフェッティ・ポテト・スープ(?!)に関係のある世界にいると思いたいんだ。そういう本当に大切なものと関係のある世界にね」
本当に大切なもの?それにしてもこのアルバムを聴いていると、このタチの悪い冗談のような世界が本当に拡がっているかのように感じてしまうから不思議だ。
「(作曲の方法を尋ねられて)でかい棚を開けて、ヘルメットをいくつか取り出す。俺、ヘルメットを集めてんだよ。そして、酒瓶を3つ取り出して、一気にかっ込む。それから、手に火を点けるんだ。で、俺の手が燃え落ちてしまう前に頭に浮かんだことを何でもかんでも紙に書きつけていくってわけ」
「ギターを手にしたのは17歳の時。弦が2本しかないギターだった。それも6弦と1弦しかなかった。でも、俺がプレーしてた音楽のほとんどはその間にある音だったんだ」
…………。僕は少しばかりシリアスになりすぎて、退屈な話をしてしまったのかもしれない。確かにここに来るまでの文章は少しばかり力み過ぎているーーいつものことだけど。自分とその回りにある、この漠然とした空気をできるだけそのまま形にするのはやっぱり難しい。
信用するに足る表現というのは、その表現の無力さに自覚的なものだ、とか、その無力さの前で身をよじっている様がリアルだ、何てことを言ったのは誰だっけか?それっていつ頃の話だっけ?考えるのもメンドウだ。
そんな疲労感が染みついてしまって「もーどーでもいいや、へへ」と気がつけば思ってしまうような僕のような人間にとって、このアルバムの持つ“いーかげん感”がこの上もなくリアルである。
僕はこのアルバムに心を動かされない人間を信じない。もし、そんな奴がいるとしたら、そいつは死んでいるのだ。何かに熱中するでもなく、ボーッとしたままの時間を守りきることこそが実は生きるということなのではないか?このアルバムを聴いていると、そんな気になってくるのである。
1994年2月/rockin’on 田中宗一郎
BECK「Mellow Gold」
BECK「Loser」PV




